愛する人を幸せにすることができないなら私は愛する人の幸せを願う。


私が彼に出会ったのは高校3年の夏の塾の特別夏期講習だった。

志望校への判定はDランク。どうあがいてもあがくのが遅すぎたと後悔。

でも最後まで諦めてはいけない。そう思って入ったのがきっかけだった。

半ば、暑さでやる気も半減し、初日から遅刻し、人目を気にしながら教室に入った。


「お前!初日から遅刻するとはやる気がない証拠だ!!」


初対面の目の釣りあがった講師に怒鳴られ、私は頭だけ下げ、

空いている席に座った。かばんの中から教科書を出し、

筆箱からお気に入りのキャラクターのシャーペンを出して

真っ白なノートに黒板の文字を写す。ふとあたりを見渡すと

みんな目の色が違う。ここまでしなくてはいけないのかと帰りたくなる。

それでも志望校に行きたいから私も机の事務作業を再開した。


"だるくね?"


机をコンコンとシャーペンでつつかれ、パッと視線を横に向けると

隣の男の子が下に視線を向けるように合図したので視線を下に向けると

彼のノートにそう書かれていた。私だけじゃなかったんだ。

なんだかそれに妙に嬉しくなり、私も同じように自分のノートに返事を書いた。


"だるいね"

"だよな。早く終われってカンジ"

"そうだね"


彼が返事を書いてくると私も書く。他の人は知らない机の上の会話が思わず楽しく、

そのときの授業はまったく覚えていない。


「なあ途中まで一緒に帰らね?」

「うん」
                    


授業が終わると彼が話しかけてきた。

それが私と彼が交わした初めての会話だった。


「ここにいるやつってみんな目がこうなってるだろ」


歩きながら彼が目を指で吊り上げる。

そのしぐさがあまりにも面白くて私は噴きだしてしまった。


「ぷっ、でもそんな顔してるよね。ほんとみんなすごい」

「でもあんたは遅刻してくるし、そんな感じしなかったから話しかけてみたんだ」


一緒の歩調で彼と歩く。

彼は背がとても高くて160cmの私でも軽く見下げられているような気分になる。

目がとても綺麗でこの人こそ美少年だろう。それが私の中の彼の第一印象だった。


「名前は?」

「え?」

「あんた名前なんていうの?」


一緒に歩いて一つ目の交差点で彼が訊いてきた。

自己紹介をしていなかったことに今、気付く。
                   


「私、琉希、神崎琉希」

「るき、変わった名前なんだな」

「よく言われる。あなたは?」

「俺は森下慧。」 

「慧くんか。あ、せっかくだから話さない?喉も渇いたし」

「俺もそう思ってた」
                     

今でも慧くんがそう言ってはにかんで笑ってくれた顔を私は覚えている。

私達はコーヒーショップに入った。二人がけの椅子に向かい合わせに座る。


「慧くんはどこが志望校なの?」


注文したアイスコーヒーを片手に私は慧くんに尋ねる。

慧くんは少し考えたように口を開いた。


「俺さ、あんまり決めてないんだよな」

「え?」

「いや、正直大学あんまり行きたいとか思ってなくてさ。
本当はすぐにでも社会に出たいんだけど、反対されてさ」

「そうなんだ」
                    

慧くんの言葉が少し腹立たしく感じた。

私はDランクでも一生懸命頑張ろうとしているのに反対されたから大学行くなんてって。


「でも、今の自分じゃ何もできないからもっと常識とか知識とかつけて
立派な大人になりたいって思う。そのために大学でもっと学びたいって思うようになったけど」

「そっか。いい加減ってわけじゃないんだ」

「いい加減って。じゃああんたは何で大学に行きたいんだ?
その割にはまともに授業受けてるようには見えなかったけど」


そのときは話をはぐらかされてわからなかったけど、この言葉の意味が理解できたとき 

私は慧くんの思いを痛いくらいに感じた。


「そ、それは慧くんが邪魔したからじゃない」


飲んだコーヒーを噴き出しそうになるのをこらえて私は反論した。

慧くんは笑ってコーヒーを口にする。

それにしても暑いのにホットコーヒーを飲む彼の姿がやけに不自然で仕方なかった。

「だってやる気ゼロっぽかったしさ。あんた」

「あんたってさっき私の名前教えたじゃない」

「え?なんだっけ?ふきだっけ?」



慧くんがわざとらしく言うので私は口を膨らませて軽くにらんだ。

それを見て慧くんがまた笑う。彼の笑顔は素敵で見とれてしまった。

なんてことは決して言わなかったけれど、また話したいと思ったのは間違いじゃない。

もしかしたら彼なら私を永遠の片思いから解放してくれるんじゃないかなって。


「そうだ携帯、教えてよ。俺、あの塾もう行かないからさ」

「え?やめちゃうの?」

「俺には無理。だから家庭教師やってもらう。知り合いにね」

「そっか。寂しくなっちゃうね。せっかく知り合えたのに」

「だから携帯聞いたんだろ?もっと話したいと思ったから さ」
       

どうやらそう思ったのは私だけじゃなかった。

塾でもう慧くんに会えないのは寂しいけれど、メールできるならそれで十分。

私はハートの鍵のストラップをつけた携帯をかばんから出した。私の宝物。


「そのストラップ」

「え?あ、これかわいいでしょ。もらい物だけどね」

「そうなんだ。俺の知り合いもつけてたから驚いた。あ、はい。これ俺の番号」

「けいってどんな漢字?」

「あ、それそれ」


お互いの名前の漢字を聞きあいし、番号交換成立。

もし私がこのときストラップを見た慧くんの表情の意味に気付いていたら

何か変わっていたのかな。


「よし!じゃあメールしてな」

「OK」

「あ、俺ちょっと約束あるからじゃあ、またな琉希」


慧くんが私の名前を呼んでくれた。嬉しくて顔を上げることができず、

下を向いていた私にちゃんと顔見ろって慧くんがこつんって頭をたたく。

顔を上げると慧くんが笑ってた。

初めて会った人なのにこんなに心が動かされるのはなぜだろう。

私は慧くんが出て行ったあともしばらくそこを動けなかった。